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それは、透が体験した、ひと夏の不思議な不思議な物語。
例年以上に暑い、八月の物語。



静かなる出逢い
氷室詩音

ジリリリリリ!
目覚まし時計の、けたたましい音が部屋中に響き渡る。その音を近所迷惑にならないように早めに止めるのが、透の日課だ。
「ん、五時か。起きよ」
外はまだ太陽が目覚めた頃。太陽と共に僕は目覚める。朝早くに起きて、夜は日付が変わる前に寝る。今時の高校生にしては、規則正しい生活を送る高校生の夏。いつもの一日。変わらない日常。その日常が、僅かにずれ始めたのが、八月のある日のことだった。

羽柴透は高校三年生。身長はあまり高くないし、体重もそんなに重くない。
小さい頃から、視力が悪くて眼鏡をかけている。昔から勉強は人並み以上に出来たが、運動だけはからっきしで、体育の成績はいつも一か二、三が付いたら奇跡に近い状態だった。そのせいで去年、危うくもう一年同じ学年で過ごすところだった。
ジリジリと太陽の熱が、眩い光と共に容赦なく降り注ぐこの日。気温は三十度を軽く越えている。そんな外にも出たくない、人々を冷房症に陥れるこの季節は、透にとって忘れられない季節となった。

盂蘭盆会前のこの時期、周囲の人は里帰りの準備をしていて、透の家も例外ではなかった。表で三分も立っていれば汗だくになってしまうような猛暑の都会を抜け出し、田舎の涼しげな環境に行けるということは、里帰りをする手間や面倒を差し引いても、喜ばしいことだった。
明くる日の朝、透は田舎の祖母の家へと出発した。祖母の家までは車で二時間ほど内陸に向かった、田んぼの広がっている、絵に描いたような田舎町で、車も殆ど走っていないし、もとより、車が走れるような道も少なかった。
地球温暖化の影響など、まるで関係ないと言わんばかりに、その地の気候は涼しげだった。都会の蒸し暑さが嘘みたいだ。
「よく来たねぇ。ゆっくりしていきな〜」
という祖母の言葉に軽く返事をしたあと、透は畳の上に寝転がった。蝉の鳴き声は、何処に行ってもやかましい事に変わりない。ただここは、蝉の鳴き声以外の雑音が殆どない分、余計に鬱陶しく感じた。
「田舎って言うのは、やることがなくて暇だな〜」
この地にやってきて一時間も経たない内に、透は暇を持て余していた。家にいても特にこれといってすることもなく、透は周囲の散策に出かけることにした。
周りは山に囲まれていて、青々とした木々が鬱蒼と生い茂っている。少し奥まで足を踏み入れたら、忽ち遭難してしまうのではないかと思えるほどの恐怖感にも似た感情が、透の中に芽生えていた。しかし、この森の中に入ることはないだろうと、透は軽く考えていた。

少なくとも、この時は。

一通り歩き回ったが、ここは都会のように娯楽施設があるわけでもなく、ただただ森と田んぼ、農家が連なっているだけだった。始めはワクワクしながら歩いていた透だったが、こうも同じ風景ばかりが続いていると、童心に帰った気持ちも、元の世界に引き戻されてしまう。虫取りや川を眺めているだけで楽しかった少年時代とは違う。子供と大人の狭間の年頃にある透にとって、好奇心で動ける時間というのは、次第に短くなっていたのだ。都会ではあまり見ることのできない田園風景を背に、透は足早に帰宅した。
辺りが闇に支配された頃、外は昼間けたたましい泣き声でリサイタルを開いていた蝉たちも息を潜め、村は静寂に包まれていた。まるで、世界に我が家だけが取り残されてしまったかのように。
「どうさね、東京とは違って、こっちは静かだろうよ」
「うん、すごく静か。東京じゃ考えられないや」
車が走っているわけでもない、交通機関はもっぱら自家用車。その自家用車も、この地域では持っている人も疎らだ。駅まで歩いて三十分。ここは世界から切り離された別世界のように感じさせるほど、長閑な地だった。
(たまには、こんなのんびりとした生活も悪くないかな)
受験戦争の下準備に追われる毎日を送っていた透にとってこの場所は、英気を養うのにうってつけの場所だった。

透は夢を見た。それは真っ暗で薄暗い、じめじめとした場所。その暗さは尋常ではなく、自らの体すら見えなかった。
(ここは……何処……?)
漆黒の闇が世界を覆いつくす。透は次第に恐怖と孤独に蝕まれていった。
(暗い……誰もいない……怖いよ……)
ためしに叫んでみても、喉からその叫びが発せられることはなかった。
いったいどれだけの時間が経過したのだろうか。透はひたすらに歩き続けていたが、一向にこの闇を抜け出せる雰囲気ではない。透の瞳から、一粒の涙が零れた、その時。
“こっちだよ”
声が聞こえた。それは自分も出すことができなかった声。そして自分が求めていた声。
(どこっ! どこなの!?)
叫べど叫べど、透の声は闇の中に呑まれていく。けれどもその声は確かに届いた。
“信じて、自分を。きっと出られるって、信じて”
声は心に届いているようだった。透は、藁にもすがる思いで強く念じた。
(大丈夫、出られる。出られるんだ!)
すると遠くに、一筋の光が見えた。透は残る力を振り絞って走り出した。まっすぐ、ただまっすぐ。一筋の光を目指して。

「出れた〜!」
やっとの思いで闇を抜け出した透は、辺りを見渡して驚いた。
「ここ……あの森の中……?」
透が立っていた場所は、鬱蒼と茂ったあの森の中だった。自分は昨日、布団で寝ていたはずなのに。透は不安になってすぐに家に帰ろうと思った。しかし帰り道が分からない。そんな中、どこからともなく笛の音が聞こえてきた。
(笛の音? 何でこんなところに?)
不思議に思いながらも、透の足は自然とその笛の音の方向へと翔け出していた。

4-a

「はあっ、はあっ、はあっ」
五分も走ると、透のスタミナにも限界が近くなってきていた。笛の音は次第に近づいている。すると透は、木漏れ日の差し込む開けた場所に出た。そこには髪の長い小さな女の子がチョコンと座っていた。手にはリコーダーが握られている。
「君が吹いてたの?」
透がそう訊ねると、彼女はそっと頷いた。
「上手いんだね」
そう言うと、彼女は頬を赤らめながら返事を返してくれた。
「……おじいちゃんが……買ってくれた……から……練習……してた」
途切れ途切れながらも、ゆっくりと話してくれる彼女。透は彼女の隣に座って語りかけ始めた。
「どこから来たの?」「僕はおばあちゃんちに帰省してるんだ」「ここは長閑でいいところだね」「おうちの人は心配してない?」
いろいろ話しかけても返事がない。それでも透は絶えず話し続けた。そると、初めはオドオドしていた彼女も、時が経つにつれて次第に心を開き始めた。そしてようやく彼女の名前を聞きだす事ができた。彼女の名前は「百合」というらしい。今度、おじいさんに聴かせてあげようと練習しに、いつも遊んでいた――今では迷うことはほとんどない――森に来たのだとのことだ。それを聞いた透は心底安心した。これでこの森から出られる。心配事がなくなり、しばらく彼女の練習に耳を傾けてから一緒に家に帰った。

5-a

それから毎日のように、彼女の練習に付き合っていた。元々やることのなかった地だったので、透は自分の時間を存分に彼女と共に過ごす事ができた。そしてとうとう、別れの日がやってきた。百合はわざわざ車まで見送りに来てくれた。
「それじゃあね、百合ちゃん。また来るから」
百合は今にも泣きそうな顔をしていた。その透き通った瞳には、涙が溢れそうになっている。
「それじゃあお母さん、また来ますね」
「おーおーいつでもおいでなさいな」
家族はみんな車に乗り込んだ。あとは透が乗り込むだけとなった。名残惜しいとは思いながらも、透も車に乗り込み、バタンとドアを閉めた。ブルルルルと低いエンジン音を上げ、車は走り出した。
「また……また来てね〜! きっと、きっとだよ〜!」
いつも小さな声でボソボソと話していた彼女が、出せる限りの大声を出して叫んでいた。その声を聞いた透は思わず涙が零れた。助手席の窓から身を乗り出し、大きく手を振った。彼女の姿が見えなくなるまで、いつまでも、いつまでも。

6-a

あれから十年。透は、祖母の住んでいた家で、農業を営んでいた。あれだけ元気だった祖母も、二年前に亡くなり、祖母が遺した田畑を透が継いだのだ。
「ふう……。少し休憩するか」
高校卒業後から勤めていた会社を辞めることを決断した時、両親は特に反対するということはなかった。ただ、後悔だけはするな、と父に念を押されたが、透は絶対に後悔することはないという自信があった。。事実、透は後悔したことはなかった。今までも、そしてこれからも、きっと。
「透さ〜ん! お茶が入りました〜!」
透の隣、そこには、十年前の彼女がいた。
二人で幸せに暮らす町に、夕刻を告げる鐘の音が響き渡っていた。

Fin...

4-b

「はあっ、はあっ、はあっ」
五分も走ると、透のスタミナにも限界が近くなってきていた。笛の音は次第に近づいている。すると透は、木漏れ日の差し込む開けた場所に出た。そこには髪の長い少女が、切り株にチョコンと座っていた。彼女の手にはフルートが握られている。
「君が吹いてたの?」
透がそう訊ねると、彼女は驚いた顔をしながら、コクコクと頷いた。
透が嘘偽りなく、上手だね、と褒めると、彼女は顔を赤らめながら、そんなことないよ、と謙遜した。祖母からは、同じような年頃の人がいるということを聞いていなかった透にとって彼女との遭遇は、いろいろな意味で衝撃的だった。何気なく彼女の隣に座ったが、彼女から話しかけてくることはなく、透が一方的に話しかける形式がしばらく続いていた。さすがに透も話す話題がなくなり、辺りには再び静寂の時が訪れた。
辺りが暗くなり始めたころ、彼女はスッと立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。
「あっ、ちょっと!」
「帰る。ついてきて」
透が呼び止めると、彼女は軽く振り返りそう言うと、再び歩き出した。しばらく歩き続けると、森の出口に辿り着いた。その場所は、昼間見た森の入り口だった。透は辺りを見回した後、彼女に礼を言おうと振り返ったが、
「あ、あれ?」
彼女はすでにそこにはいなかった。

5-b

それから数日、一度として彼女に出会うことなく、出発の日が訪れた。祖母と別れの挨拶を交わし、車に乗り込む。静かな町にブルルルルと低いエンジン音を響かせ、ごみごみとした都会へ向けて走り出す。何気なく外を眺めていたそのとき、
“また来てね。待ってるから”
ほんの少ししか聞いたことのなかった彼女の声が聞こえた気がした。
(また、来るか)
田舎に帰るのがいつも億劫だった透であったが、この日から、帰省を楽しみに待つようになっていた。しかし大学に入った透は、勉学に励む事に精一杯で、帰省を楽しみにしていた気持ちも、忙しさの中に飲み込まれていった。結局、あれ以来帰省する事もなく、名前も知らない少女と逢うことも、二度となかった。

6-b

あれから十年。透は、一流大学を主席で卒業し、都内にある大企業のエリートとなっていた。会社に勤めるようになってから、田舎に帰ったことは一度もない。仕事に忙殺されそうな毎日を送っている。二年前に亡くなった祖母の葬儀に出席することもできず、両親とは疎遠の関係となっていたが、透の心は充実感で満ちていた。
「おい羽柴、次の業者行くぞ」
「あ、はい、今行きます」
眠らない街、首都東京に、あの町のような静寂は訪れない。
Fin...

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